(移転しました)

がんばる

思考の多面性から見る「人間らしさ」

 


twitterでフォロワーを稼ぎたければ「人間らしいブレ」を捨ててキャラコンテンツになりきればいい』
衝撃的なツイートだった…。自分で薄々感じていても言葉にできなかったことだ。全くその通りだと思う。これはツイッターだけの話ではなく、実際の人間関係にもこの法則は当てはまる。

 

【なぜ、『人間らしいブレ』を捨てればフォロワーが増えると思うのだろうか?】
はっきり言って、他人から見る「人間らしいブレ」というのは「見ててウザい」からだと思う。情緒不安定で、意見や好みをころころ変えたりする人間は、ツイッターだけではなく現実でも好かれない。
【なぜそういう人間は好かれないのか?】
それは、人間はとかく他人のことをステレオタイプに分析するのが好きだからだろうと思う。「この人は優しい」「この人は気難しい」といった具合に。
【ではなぜ、人間はステレオタイプに他人を分析したがるのか?】
理由はいろいろある気がする。
→第一に「ステレオタイプに分析したほうが効率がいいから」。
「この人は○○だ」と分析してしまえば、その人へのこれからの付き合い方を決定しやすくなる。分析された側も、分析されたように動けば、円満な付き合いができる。
つまり「第一印象」というやつだ。第一印象でその人の印象が決定づけられるとはよく言われる気がする。
→第二に「人間はステレオタイプにしか他人を判断するための基準を持っていないから」。
他人を一人思い浮かべて、その人のことを詳しく説明できるか、考えてみてほしい。
「○○な人」という、いわゆるステレオタイプな性格付けしかできないんじゃないかな?もし「××はいつも優しいけど、あんなことをしたら強く怒るし、結構泣きっぽい」みたいに、ステレオタイプとは呼べないほど複雑に性格分析ができているのなら、それは長い付き合いの証拠だ。だがその性格分析も、ある意味ではステレオタイプな性格付けの連続であるということがわかる。

 

【つまり何が言いたいかというと、「人間は対人関係において、未だ動物的で野性的な感覚を捨てきれていないのではないか」ということだ。】
人間は(個人差はあるが)一人ひとりの脳の中ではとても複雑な思考ができる。すべての物事に対して、様々な面から分析して、自分なりの感覚を持つことが出来る。
しかしいざ言葉にすると? いざ他人に聞かせてみると? その複雑な思考は突然平面化され、「この人だからこうだ」みたいな、印象付けが行われる。

【たとえば】
目の前にいじめを受けている同級生と、いじめを行っている同級生がいる。
中立の立場にいる「自分」は、そこで複雑な感情を覚える。
しかしいざその感情を口にしてみると、すべての自分の感情を出し切れず、どちらかに偏っていることに気づく。
それは非常に社会的な側面から生まれる偏りだ。いじめられている側を擁護したときのリスク。自分がいじめに加担するかもしれないという恐怖。
自分がどちらの意見を口にしたにせよ、そこには三次元的な立体感は失われているのだ。

ざっくり言うと、【文章による表現方法なんてそんなもんだ。】
学者や、知識の深い人間が断定を嫌うのも、そういった動物的な感情から少しでも離れたいという気持ちの表れなのかもしれない。

 

【話を元に戻す。】
「他人に好かれるためのは自身をコンテンツ化すべきだ」という話。
これは、自分の思考のレベルを他人に伝えられるレベルにまで下げ、思考の三次元化を阻止すればいい、ということだ。
正確には【三次元化した思考のレベルをいかにバランスよく下げ、他人に伝えられるかで、その人の人格が決まる】ということだ。
もちろん、思考に個人差はある。
思考の時点で一貫性のある人間。こういう人がつまり好かれるのだ。
逆に、情緒不安定で思考に一貫性がない人間。基本的に嫌われる。その度合いが高いと「気が狂っている」と言われる始末である。


しかし。三次元的にものごとを考えるということ。これはつまり「思考のブレ」の最も大きな原因であり、それはつまり最も「人間らしい」行為である、と思わざるを得ない。
多面的な思考は、人間の特権である。
思考のレベルを下げ、二次元的にものごとを考えるというのは、つまり立体的な思考を放棄し、人間らしさを失い、動物の感性に身を任せるということに他ならない。
人間は、言語というレベルの低い、縛られた感性に囚われる必要などないのだ。
それは誰もが薄々感づいていることであり、芸術家たちは「言葉にできない表現」を模索する。人間らしさというブレは、多面的な思考をするためには必須なのである。
「狂気」「思考のブレの大きさが起こす、言語表現の放棄」と捉えると、狂気こそが人間性の本質である】と言える。


ツイッターのキャラコンテンツとして、人間関係のキャラコンテンツとして生きる。これは一見正しいように見えて、実は野性的で、悲しい行為なのかもしれない。

 

 

そこまで気づいて、自分のこれからの身の振り方を考えたけれど、どうしようか迷う・・・。

三次元的思考を放棄するのも、狂気を振る舞うのも、どちらも正しいと思う。前者は社会的に、後者は人間的に。

でも自分は少なくとも「三次元的な思考を放棄し、ステレオタイプにしか他人を分析できない」人のことは手放しに喜べないし「他人をステレオタイプに分析する」人間にはなりたくないなー、って思うのでした。

悲しいことに、自分も他人のことをステレオタイプに分析することしかできない。
だけどここで俺が一番言いたいのは、「他人を一面的に判断するのは駄目。もっとたくさんの判断基準を持って、その人に人間らしく接してあげよう」ということ。
「自分は○○な人間だから…」と断定して動けなくなることは結構みんなやってると思う。
自分自身も、自分のことをステレオタイプに判断するのはやめよう。三次元的な思考を縛ることになるからだ。
多面的な思考は、いつか自分のためになる。

 

【つまり】

フォロワーを増やすために自分のことをキャラ化するのは正しい判断だ。でもそれによって失われる人間らしさにも目を向ける必要があるのだ、ということ。

 

 

(他人のことをステレオタイプに判断するテレビ番組なんてのが嫌いな理由がちょっとわかった。嬉しい)